他人の評価に疲れる本当の理由|気功と仏教で見る心のしくみ

他人の評価に疲れる。

この言葉を聞いた時、多くの人は「人の目が気になる」「どう思われているか不安になる」「嫌われたくない」という感覚を思い浮かべるかもしれません。

けれども、私はこの「評価に疲れる」という言葉の奥には、もう少し切実なものがあるように感じています。

それは、単に誰かにどう思われるかという話ではなく、

「ここで評価されなければ、自分は生き残れないのではないか」

という感覚です。

仕事の中で評価されなければいけない。家族の中でちゃんとしていなければいけない。周りから変に思われてはいけない。迷惑をかけてはいけない。

そうやって、ずっと気を張って生きている人がいます。

頑張ってきたけれど、どこかでつまずいてしまう。もう頑張れない。自分は無理なのではないか。そういう時に、人は「他人の評価に疲れた」と感じるのだと思います。

ただ、ここで少し立ち止まってみたいのです。

私たちは本当に、目の前の他人そのものに疲れているのでしょうか。

もしかすると、心の中に立ち上げた“バーチャルな他人”に疲れているだけなのかもしれません。

優しい人ほど、人の感情を察しすぎてしまう

Sun気功ヒーリングスクールに来られる方の中には、人の感情を察しすぎて疲れてしまう方が多くいらっしゃいます。

たとえば介護職の方であれば、高齢者の方のお世話をする中で、ずっと気を張っています。

認知症の方から急に暴力を振るわれるかもしれない。逆に、自分の不注意で相手を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。職場の空気も、いつも穏やかとは限りません。

医療や介護の現場では、悲しいニュースが起こることもあります。それは、そこで働いている人が冷たいからではなく、それだけ人が疲弊してしまう現場でもあるということだと思います。

特に女性の場合、仕事をしながら、家事をし、子育てをし、さらに親や義理の親の介護まで抱えることがあります。

また、HSPやエンパス体質と呼ばれるような、人の感情や場の空気に敏感な方もいます。

私自身も、エンパス体質の診断をすると、かなり多くの項目が当てはまりました。気功を始めてから診断したので、気の感覚に敏感になっていたこともあると思います。

それでも昔を振り返ると、人混みや街中にずっといると、どっと疲れる感覚は確かにありました。

優しい人ほど、よく気づきます。

よく気づくから、よく疲れます。

けれども、その疲れの中には、本当に相手を見ている疲れと、自分の心の中に作った相手を見ている疲れが混ざっているように思うのです。

中学生の頃、ピッチャーとして評価されなかった記憶

ここで少し、私自身の昔の話をさせてください。

中学生の頃、私は硬式野球のチームに入っていました。

もともとは卓球部だったのですが、その頃、野球の投球を科学的に分析する本に出会いました。今では、メジャーリーグでもボールの回転数や肘の角度などが普通に語られていますが、私が中学生の頃は、そこまで一般的ではありませんでした。

当時、私が強く惹かれたのが「ジャイロボール」です。

松坂大輔投手やランディ・ジョンソンのような、すごいストレートを投げるピッチャーが投げていると言われていた球です。

私はその本を買って、「この球を投げたい」と思いました。

卓球部だったにもかかわらず、卓球のボールでジャイロ回転を投げる練習ばかりしていた記憶があります。あまり卓球の練習はしていなかったような気がします。

そこから、どうしても野球をやりたくなりました。

私は左利きで、左投げ左打ちでした。左投げのピッチャーは貴重です。監督も左のピッチャーを欲しがっていたようでした。

自分の中では、もうピッチャーをやるつもりでした。

ところが、実際にチームに入ってみると、すでに左投げのエースピッチャーがいました。

私は勝手に、その選手と二枚看板でやるつもりでいました。けれども現実はまったく違いました。

球は速くない。コントロールも悪い。

野球は団体競技です。中学生のチームとはいえ、コントロールが悪くて球速もないピッチャーは、試合では使えません。

直接「お前はピッチャーとして無理だ」と言われたわけではありません。

でも、野球の世界では、言葉で言われなくても、ポジションで評価が下されます。

シートノックでピッチャーの位置に入っていたのに、ある日から外野へ回される。一塁手に回される。「今日はそこをやれ」と言われる。

何も言われずに外される。

これは、結構こたえました。

ジャイロボールの本を二冊くらい買って、ヒップファーストとか、軸足にエッジを利かせるとか、キャッチャーミットにターゲティングするとか、本に書いてある通りにやっているつもりでした。

でも、全然できませんでした。

自分では研究しているつもりだった。努力しているつもりだった。

でも、ピッチャーとしては評価されなかった。

その時のショックは、今でも記憶に残っています。

外野手として生き残る喜びもあった

その頃、野球を続けるのがつらいと、母親に車の中で話した記憶があります。

入部して三ヶ月もしないうちに、「辞めたい」と言っていたと思います。

母親は、「もうちょっと続けてみたら」と言いました。

それで私は、いやいやながら野球を続けることになりました。

ピッチャーではなく、外野手としてです。

ところが、外野をやってみると、意外と得意でした。

外野の守備では、監督がノックを打つと、ボールが空高く舞い上がります。その打球がどこに落ちるかを、バットに当たった角度、勢い、反発の速さから瞬時に判断しなければなりません。

ボールを見ながら走ると速く走れません。だから、ある程度見切って、目を離し、落下地点までダッシュする必要があります。

私はそれが得意でした。

球を見切って、落下地点までうまく走り、フライを捕ることができる。

それはよく評価されました。

センターやライトを守ることもでき、外野手として生き残っていく喜びもありました。

ピッチャーとしての評価は低かった。

でも、外野手としては評価される嬉しさがあった。

この経験は、単なる野球の思い出ではありません。

評価されること。外されること。別の場所で生き残ること。

そういう感覚を、私の中に残しています。

人の顔色を見ているようで、本当は見ていないのかもしれない

人の評価に疲れている時、私たちは「相手のことを気にしすぎている」と思いがちです。

たしかに、そういう面もあります。

けれども、もう少し深く見ると、実は相手そのものを見ていないことがあります。

人の顔色を見ているようで、本当はその人を見ていない。

これは、少し厳しい言い方に聞こえるかもしれません。

でも、人間関係に疲れてしまう時、私たちはよく、目の前の相手ではなく、自分の心の中に作った相手とコミュニケーションしています。

たとえば、目の前の人の髪型、声、立ち振る舞いを見た時に、過去に出会った似たような人を思い出す。

昔こういう声の人に嫌なことを言われた。

こういう雰囲気の人は、きっと自分を否定する。

こういう立場の人は、きっとこう思っている。

そうやって、自分の記憶の中にある人を、目の前の相手に重ねてしまうことがあります。

すると、本当の相手ではなく、自分の心の中に立ち上げた“バーチャルな相手”と会話してしまうのです。

心の中に立ち上がる“バーチャルな他人”

他人の評価に疲れている時、実は現実の他人そのものに疲れているわけではないのかもしれません。

心の中に、評価する誰かを立ち上げている。

そのバーチャルな他人が、ずっと自分に何かを言ってくる。

「お前はダメだ」
「そんなこともできないのか」
「もっとちゃんとしろ」
「人から認められないと意味がない」

過去に誰かから言われた言葉かもしれません。

あるいは、直接言われたわけではないけれど、自分の中で作り上げた声かもしれません。

言った本人は、もう忘れているかもしれません。過去の出来事として、もう過ぎ去っているかもしれません。

でも、自分の心の中に閉じこもっていると、いまだにその人が自分に評価を下しているように感じてしまう。

それが苦しいのです。

他人の評価に疲れているようで、実は自分の心の中に立ち上げた“バーチャルな他人”に疲れている。

ここに気づくと、少し心が軽くなることがあります。

「あれ、これは今の相手ではなく、自分の中で作っている世界なのかもしれない」

そう見えるだけで、評価の苦しみに少し距離が生まれます。

ネット社会で増えた、リアルではない評価の疲れ

今は、知らない人から評価される機会がとても増えました。

SNSのコメント、いいね、再生数、フォロワー数、YouTubeの反応。

昔は、リアルに会っている人との関係が中心でした。

たとえば喧嘩をしたとしても、次の日やその次の日に「昨日は言いすぎた、ごめん」と仲直りすることができました。

相手の表情を見ながら、声を聞きながら、関係性が少しずつ修復されていく。

リアルな人間関係には、記憶が塗り替えられていく余地がありました。

けれども、ネット上の言葉は残ります。

よく知らない人からの一言が、心の中に残ってしまうことがあります。

その言葉を何度も思い出し、自分の中で何度も再生してしまう。

現代人が他人の評価に疲れている時、実際には、自分の記憶の中でバーチャルな他人を立ち上げ、その相手とのやり取りで疲れていることが多いのかもしれません。

自分の中だけで暴走している。

ここに気づけると、「それは現実そのものではなく、自分の心が作った世界なのかもしれない」と見えてきます。

仏教で見る「自我」と評価疲れ

仏教では、自我が人生を苦しめる大きな働きとして語られます。

自我というと難しく聞こえますが、ここでは「自分の世界の殻に閉じこもっている心の働き」と考えるとわかりやすいかもしれません。

自我には、人と優劣を比べようとする働きがあります。

「あの人は優れている」
「あの人は自分より劣っている」
「私はあの人より下だ」
「自分はなんてできないやつなんだ」

こういう競争意識や優劣意識が、自我の中にはあります。

日本には「出る杭は打たれる」という文化もあります。

誰かがずば抜けていくと、周りが足を引っ張り、自分たちのところまで引きずり下ろそうとすることがあります。

それも、自我の働きの一つだと思います。

競争する意識。

優劣を測る意識。

人と比べる意識。

そこから、自己卑下や自己否定が生まれていきます。

「自分は大したやつじゃない」

そういうレッテルが貼られていく。

そして苦しくなると、人のことも同じような目でしか見られなくなっていきます。

自我は川の流れのようなもの

ただ、この自我は、ずっと固定されたものではありません。

自我は、川の流れのようなものです。

春夏秋冬が巡るように、生じては滅し、生じては滅していく。

怒りも、悲しみも、不安も、評価されて傷ついた記憶も、ずっと同じ形で存在し続けるわけではありません。

川のそばに立っていれば、激流が海の方へ流れていくのを見られます。

けれども、自分の世界に閉じこもっている時は、その川に流れている赤いボールを追いかけてしまうのです。

その赤いボールが、嫌な記憶だったり、他人に評価されて落ち込んだ記憶だったりする。

本当は、その場に立って見ていればいい。

放っておけば流れていく。

でも、追いかけてしまうから、いつまでもその記憶が目の前にあるように感じてしまう。

これが、自我の激流に巻き込まれている状態です。

「ほっとけ、ほっとけ」という仏の感覚

仏教では、この自我の流れについていかないことを練習します。

ほっとく。

「ほっとけ、ほっとけ」で、仏さんの境地のようなものです。

これは冗談のように聞こえるかもしれませんが、とても大事な感覚です。

心の中に悩みが現れる。

過去の記憶が出てくる。

誰かの評価が気になる。

その時に、すぐに追いかけない。

すぐに解決しようとしない。

すぐに消そうとしない。

ただ、「今、これが出てきているんだな」と観察する。

そうしていると、多くの心の現象は、だんだん消滅していきます。

幻そのものではありません。

でも、幻のようなものです。

とらわれる必要はない。

瞑想をしていると、それが体感的にわかってくるようになります。

慈悲の瞑想が、人間関係の境界線をゆるめる

今回の話の中で、とても大切なのが慈悲の瞑想です。

慈悲の瞑想は、原始仏教の中にもある瞑想です。

「生きとし生けるものが幸せでありますように」

そういう慈悲の気持ちを呼び起こしていく瞑想です。

ある生徒さんは、人と会う前に慈悲の瞑想をするそうです。

すると、だんだん自分自身が境界線を作っていたことに気づき始めたと言います。

自分と他人を分けている感覚。

相手に気を遣っているつもりだったけれど、実は相手に気づかないようにしていたのではないか。

境界線を張っていたのではないか。

相手のことを考えているようで、実は自分の世界に閉じこもり、自分で妄想を作り、その妄想の中で苦しんでいたのではないか。

そういうことに気づくきっかけになったのが、慈悲の瞑想だったそうです。

まず自分自身に慈しみを向ける

慈悲の瞑想では、まず自分自身に慈しみを向けます。

「私が幸せでありますように」
「私の悩み苦しみがなくなりますように」
「私の願い事が叶えられますように」
「私に悟りの光が現れますように」

まずは、自分自身です。

これはとても大切です。

自分自身が疲れている。

自分で自分を苦しめている。

自分に厳しくしすぎている。

その状態のまま、人に優しくしようとしても、どこかで苦しくなってしまいます。

なぜ自分に厳しくしすぎるのか。

それは、育った環境の中で、人から厳しくされ、評価され、その評価に応えなければいけないと思ってきたからかもしれません。

良い評価をもらわないと、自分は生きていけない。

幼い頃からそういう感覚の中で育ってきた人ほど、真面目で、人の評価に疲れやすいのだと思います。

だからこそ、まず自分自身に対して、

「どんな社会的評価をされたとしても、もともと価値のある生命なのだ」

という慈しみを向ける必要があります。

何をしても、何をしなくても、まずそのままで素晴らしい生命なのだという感覚。

これがないと、心を塞いでいる鎖のようなものを解きほぐすのは難しいのです。

自分から親しい人へ、生きとし生けるものへ

自分自身に慈しみを向けたら、次に親しい人へと広げていきます。

「私と親しい生命が幸せでありますように」

そうやって、自分の領域を少しずつ広げていく。

最初は自分。

そこから親しい人。

そして、さらに生きとし生けるものへ。

慈しみの気持ちを広げていくことで、だんだん心が和らいでいきます。

私とのセッションを受ける前に、私のために慈悲の瞑想をしてくれた生徒さんがいました。

「坂本先生が幸せでありますように」
「坂本先生の悩み苦しみがなくなりますように」

そう瞑想してからセッションに出てくれたと聞いて、私はとても感動しました。

そして、その方自身も、慈悲の瞑想をすることで、うまくしゃべれなかったことが少しずつしゃべれるようになり、自分の本音をスムーズに人に伝えられるようになってきたそうです。

本音を隠し合う関係は疲れる

人間関係では、お互いに本音を隠し合っていると、とても疲れます。

腹黒く、本音を隠して、相手にどう思われるかを気にしながら話す。

これは、とてもぎくしゃくします。

それは結局、他人の評価を気にしすぎている状態だと思います。

本来は、お互いが本音を出し合って、何の腹黒いこともなく、率直に関係性を築いていけるのが一番健全なのではないでしょうか。

もちろん、何でも言えばいいという話ではありません。

でも、自分が苦しい時というのは、自分と相手の間に壁がある感じがします。

その壁を解きほぐしてくれるのが、まず自分自身への慈しみであり、相手への慈しみと尊厳なのだと思います。

気功と瞑想は、自我の激流を追いかけない練習になる

気功もまた、自我の激流を追いかけない練習になります。

気功というと、気を出すとか、気を操作するといったイメージを持たれることがあります。

けれども、私にとって気功は、気を無理に操作するものではありません。

気を体で感じること。

今、自分の中で何が起きているのかを感じること。

それによって、自然と観察する力が育っていきます。

瞑想も同じです。

瞑想は、気持ちよくなるためだけのものではありません。

リラックスするためだけのものでもありません。

もともとは、自我を観察する視点を呼び覚ますための方法です。

家事をしている時に、急に昔の嫌な記憶を思い出すことがあります。

思い出したくないのに思い出してしまう。

心は、自分でなかなかコントロールできません。

だからこそ、観察するのです。

「あ、今この記憶が出てきたな」
「あ、今怒りが湧いてきたな」
「あ、今悲しんでいるな」

そうやって観察していると、あとは勝手に消えていくことがあります。

もちろん、また出てくるかもしれません。

でも、それは家の中を素通りするお客さんのようなものです。

「ああ、また今日も来たか」
「また玄関から入ってきたな」
「またどこかへ出かけていったな」

そういうふうに見られるようになっていきます。

これが、仏教でいう悟りの感覚に近いのだと思います。

悟りというと、とても遠くて難しいものに聞こえます。

でも、実際には、自我が生じては滅していくものだと観察できること。

そこにとらわれないこと。

その練習が、瞑想であり、気功でもあるのです。

他人の評価に疲れた時、日常でできる小さな実践

他人の評価に疲れた時、いきなり大きく変わろうとしなくていいと思います。

まずは、呼吸を観察してみてください。

お腹が膨らんでいる。

縮んでいる。

息が入ってきている。

出ていっている。

その途中で、昔の記憶が出てくるかもしれません。

誰かに言われた言葉が浮かぶかもしれません。

その時に、すぐ追いかけない。

「あ、今これが出てきたな」と見る。

それだけでいいのです。

そして、人の顔色を気にして疲れた時には、こう問いかけてみてください。

「私は今、目の前の人を見ているのか」
「それとも、過去の記憶の中の誰かを見ているのか」
「心の中に、評価する誰かを立ち上げていないか」

もし、目の前の人が何を考えているかわからないなら、決めつけなくていいのです。

直接、聞けばいい。

「どう思っていますか」

それだけで、心の中に作り上げたバーチャルな相手ではなく、今ここにいる相手と関わることができます。

これは簡単なようで、とても大切なことです。

人のために生きたいなら、まず相手を本当に見る

人に迷惑をかけたくない。

人のために生きたい。

大切な人の力になりたい。

そう思う方ほど、他人の評価に疲れてしまうことがあります。

でも、本当に人のために生きたいなら、まず相手を「本当」に見る必要があります。

自分の心の中に作った相手ではなく、目の前の人を見る。

過去の記憶を重ねるのではなく、今この人が何を感じているのかを見る。

そのためには、自分の中で立ち上がる自我に気づく必要があります。

「あ、また自我が捏造の世界を出してきたな」

そう気づけるだけで、心は少し自由になります。

他人の評価に疲れているようで、本当は自分の閉じこもった世界の中で立ち上がった“バーチャルな他人”に疲れていた。

そう気づいた時、少し肩の力が抜けるかもしれません。

そして、目の前の人との関係も、少し変わり始めるかもしれません。

もう少し学びたい方へ

ポッドキャスト『満ちて帰る気功』では、頑張りすぎた心と体をゆるめ、気功や仏教の実践を日常に活かすためのお話をお届けしています。

今回のように、人間関係、評価への疲れ、自己否定、気の整え方などを、坂本佳基自身の体験を交えながらお話ししています。

Spotify:https://open.spotify.com/episode/1KJzcg5QRNonePHyekbEt5?si=QkprkzGITuWyaPe9XN051g

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