自分を責める癖をやめたい人へ|『自己責任』との決定的な違い

人の役に立ちたい人ほど、自分を責めてしまう

やめたい癖や、断ちたい悪習はありますか。

私にも、肌がかゆくなるとつい顔や鼻を触ってしまう、といった小さな癖があります。ただ、今回お話ししたいのは、そういう癖よりももっと心を苦しめる癖——「自分を責める癖」についてです。

このブログを読んでくださっている方には、人の役に立ちたい、大切な人の力になりたい、と願っている方が多いと思います。思いやりが強く、人のために尽くしたいという気持ちが強い人ほど、実は、尽くせなかったとき、結果が出なかったときに、自分を責めやすいんですよね。

私自身もそうでした。気功の施術をして「効いていないです」と言われると、どうしても申し訳ない気持ちになって、自分を責めてしまう。患者さんの症状が緩和しなかったら、自分に矢を向けて、「自分はなんてダメな気功師なんだろう」と責めていた時期があります。

クライアントを理解するために、自分で実験してきた

私には昔から、人の悩みを本当に理解したくて、自分で調べて、自分で実験してみる、という癖があります。

以前、あるお坊さんのことを知りました。檀家さんの中にセクシュアリティで悩んでいる方がいて、その方の悩みをちゃんと理解したいということで、自ら性転換手術まで受けた方です。そこまでしてクライアントに共感し、自分を犠牲にして気持ちを入れる。すごい方だなと思いました。私も、できるだけ患者さんやクライアントさんを理解したいので、一緒に調べて、自分で試してみる、ということを続けてきました。

タバコをやめたい生徒のために、自分でパイプを吸った

その一つが、タバコの話です。

昔、ヘビースモーカーで「タバコをやめたい」という生徒さんがいました。職場の上司との関係でストレスがあって、一日一箱は軽く吸ってしまう、やめられない、と。私自身はそれまで喫煙したことが一度もなく、小学生の頃から健康オタクで、タバコには興味もありませんでした。それでも、その方のために調べてみたんです。

すると、パイプタバコや葉巻というものがあることを知りました。タバコの原料になる葉っぱには、ニコチンは含まれていても、タールは含まれていません。タールは茎の部分にあるんですね。市販のタバコは、茎の部分を使って安く大量生産され、添加物も入っている。だから火をつけて放っておいてもずっと燃え続ける。でも葉巻やパイプのタバコは、燃焼剤のような添加物が入っていないので、放っておくと消えてしまうんです。

市販のタバコは、どうやらドーパミンの経路を壊してしまうようです。ドーパミンは運動を促すホルモンなので、経路が壊れると、体を動かしてドーパミンを出そうとする。喫煙者の方が吸えないときに貧乏ゆすりをしたりそわそわするのは、その状態なんですね。一方、葉を100%使ったものはタールが含まれず、パイプや葉巻に移行してタバコをやめられた人はけっこう多いらしい。私は実際に自分で吸ってみて、「よかった」という体験をして、それを伝えました。

(※これは私自身の体験に基づく話で、医療的なアドバイスではありません。喫煙や健康については専門家にご相談ください。)

それでも、相手は普通のタバコを選んだ

ここまで調べて、自分で試して、経済的にも健康の度合いでも「こちらのほうがまだいいですよ」と伝えた。でも、その生徒さんはやっぱり「普通のタバコのほうがいい」ということになってしまいました。

こういう現象が、起きるんですよね。このとき、私の心の中で何が起きるか。それが、今回の本題につながっていきます。

「自分を責めること」と「自己責任感を持つこと」は、まったく違う

「自分を責めること」と「自己責任感を持つこと」は、意外と混同されやすいけれど、まったく違うベクトルの話です。

私の中での定義でいうと、自己責任感を持つとは、世の中のさまざまな理不尽な現象を引き受けながら生きていく覚悟を持つ、ということです。相手が普通のタバコを選んだ。その現象をしっかり受け入れた上で、「じゃあ自分は次どう行動しようか」と考える。これは未来に向いています。

他責も自責も、心の中で二人が苦しんでいる

一方で、心の中にはもう一人の自分がいます。「せっかくこんなに調べたのに、なんでこの人は言うことを聞いてくれないんだ」。これは他責ですね。相手に矢印が向いている。

そして、その矢印が自分に向いてしまうのが自責です。「せっかく人体実験までしたのに、結果を出せるように伝えられない自分は、なんてダメなやつなんだ」。他責じゃなくて、自分のほうに矢を向けてしまう。これが、自分を責めるということです。

苦しいのは、この二つが同時に起きるからです。「なんでこの人は聞いてくれないんだ」という他責と、「結果を出せない自分は無能だ」という自責。どちらも、結局は自分の心の中に相手がいて、自分の心の中でずっと苦しんでいる。他責も自責も、苦しいんですよね。

一つ上の抽象度の視点から見つめる

自己責任感を持つというのは、この自責と他責を、一つ上の抽象度の視点から見つめることだと思っています。

「こういう出来事が起きた。今、自分は他責しているな、自責しているな。でも、これをやっても次の進展はないよね。起きたことはしょうがない。じゃあ、これからどうしていこうか」。視点を一つ上げること。それが、自己責任感を持つということです。

自我と本当の自分——川の流れの比喩

ここで大切になるのが、「自分」と「自我」は別々のものだ、という見方です。

自我とは、他人や社会、親や上司、学校の先生から、子どもの頃からいろんなことを教えられて、受け入れてきた情報の集まりです。これが好き、あれが嫌い。そういう信念の体系を、自我と言います。

コーヒーと紅茶、どっちが好きですか

たとえば、あなたはコーヒーと紅茶、どっちが好きですか。心の中で答えたと思います。その答えは、もう自我の働きなんですね。

では「自分」とは何か。「あ、自分は今、コーヒーが好きだと思っているな」と、一つメタ的な視点で見る。その視点のことを、本当の自分と、私はお伝えしています。

岸に立って眺めるのが、本当の自分

これはよく、川の流れで例えます。

自我は、川の激流のような流れです。速いときも遅いときもあれば、ゴミが流れてくることも、花びらが流れてくることも、赤いボールが流れてくることもある。常に一定ではないし、コントロールもできません。コーヒーが好きな人は、なかなかコーヒー嫌いにはなれないですよね。

でも、それは本当の自分ではない、と気功の世界では教えています。「コーヒーが好きな自分がいるな」と、川の岸のそばに立って見守り、観察している意識。それが、本当の自分です。

自責も他責も、この激流に飛び込んでしまっている状態です。岸に立って見ていればいいのに、流れていく青いボールをわざわざ追いかけて、川に飛び込んで執着してしまう。もう過去に流れていった出来事に、いつまでも心がとらわれてしまうんですね。

瞑想とは、自我を観察すること

「あ、自分は今、他責しているな」「自責しているな」と気づいて、激流に溺れた自分を、一度、川岸まで救い上げてあげる。岸に立っている自分の位置まで戻る。これが、いわゆるマインドフルネス瞑想でやっていることです。

妄想が起きてもいい

「瞑想中に妄想が起きてしまう」という悩みをよく聞きます。でも、実はけっこう簡単で、「あ、今すごく妄想しているな」と気づいた瞬間、もう川のそばに立っている状態になっているんです。

瞑想の定義は、自我を観察することです。「瞑想して気持ちよくなった、多幸感になった」というのは、実は失敗しています。その多幸感も自我の流れなので、「多幸感になった自分がいるな」と、一つ上の抽象度で観察しないといけない。どんなに素晴らしい現象が起きても、冷静にとらわれずに観察すること。それが本当の瞑想です。

だから、妄想が起きても全然かまいません。「妄想が起きて嫌だな」で終わるのが失敗で、「妄想が起きて嫌だなと思っている自分がいるな」と観察できれば、瞑想は成功なんです。これは2600年以上前からお釈迦さまをはじめ仏教が伝えてきたもので、本来のヴィパッサナー瞑想です。

日常でできる「なるほどワーク」

もっと日常的にできるものとして、生徒さんには「なるほどワーク」をお伝えしています。

何か現象が起きたとき、自我は働きます。好き嫌い、「この人は変な人だな」といったことが起きる。でもそこで、「なるほど」と心の中で思ってみてください。「今日、雨が降った。なるほど」「楽しみにしていた野球の試合が中止になった。なるほど」。自我では「残念だな」と流れていても、それを「なるほどな」と受け取ると、自分と自我を切り離しやすくなります。

これは特に、人との対話やコミュニケーションの場面で使うと、効果を感じやすいです。心がふだんより煩わされなくなり、乱されにくくなります。

「今の自分にできる最大限の貢献は何か」と問う

自分に立ち返ったら、ここからが大事です。「今のこの自分の状況や能力、今持っているスキルや知識を使って、今の自分にできる最大限の貢献は何かな」と考える。「今の」がポイントです。

できないことをやろうとするから、自分を責める

こう考えると、自分ができないことはできない、という当たり前のことに気づいていきます。できないことをやろうとするから、自分を責めてしまうんですよね。

患者さんの代わりに私がパイプを吸っても、患者さんが健康になるわけではありません。選択するのは患者さん自身の自由で、そこは私が介入するところではない。私にできるのは、今日、極端に言えば人差し指一本だけでも楽になってもらうこと、あるいは知識を伝えること。

たとえば、テニスで右肩を痛めた患者さんが来たことがあります。ある方に「右肩に何かついている」「この野菜を食べなさい」と言われて、それで治療している、と。私はその方が受けている治療には口を挟みません。ただ、自分が考える肩の痛みの原因——「上虚下実の姿勢ができていないこと」——を整えると、痛みが完全になくなることはないけれど、痛みにくく、炎症が起きにくい体の使い方ができますよ、と。「それをお伝えできます」と伝えました。そこまでやったら、私の責任はそこで終わりなんです。

相手の責任を奪わない、という優しさ

あとは、相手がどう選択するかは、相手の人生の責任です。そこをこちらでコントロールしようとすると、むしろ相手が主体的に責任を持って生きるという、貴重で価値のある機会を奪ってしまう。かえって相手のためにならないんですね。

子育てでも同じです。子どもが安全なところで野球を楽しんで、体を動かしながら学ぼうとしているとき、答えが分かっていても、あえて言わずに本人に考えさせる。失敗させて、悔しい思いをさせて、「じゃあどうする」と問いかける。もっと練習するのか、守備をコンバートして外野に行くのか、本人に選択させることで、その失敗から学び、成長していける。病気を抱えている患者さんも同じで、選択するのも、その病から何を学ぶのかも、患者さんがやるべきところなんです。

まとめ——自分に立ち返り、今できることを問う

思い返すと、私が苦しくなるのは、相手の人生の責任をこちらが奪いに行ったとき、無理をしているときでした。相手の成長の機会を奪ってしまっているときに、自分を責めることが多かったんです。

だからそういうとき、まず自我と自分を切り分けて、一旦冷静になり、自我に飲まれない自分という立ち位置に戻る。そのうえで、「今の自分にできる最大限の貢献は何か」と考えてみてください。

もちろん自我はずっとあるので、今でも自分を責めることはあります。でも、まず自分に立ち返り、今の自分にできる最大限の貢献は何かを考える。これだけで、心はだいぶ楽になりますし、落ち込んでも立ち直りが早くなります。ぜひ、試してみてください。

もう少し学びたい方へ

『満ちて帰る気功』は、頑張りすぎた心と体をゆるめ、本来の自分へ還っていくためのポッドキャストです。伝統気功と仏教の実践を通して、気を味方にする生き方をお届けしています。今回の「自分を責める癖」の話も、音声・動画でゆっくり聴いていただけます。通勤や家事のあいだに、ぜひ耳を傾けてみてください。

「なるほどワーク」や、自我と本当の自分を切り分ける感覚を、もう少し体験しながら学んでみたい方へ。気功がはじめての方でも学べる バーチャル秘伝功アカデミー をご用意しています。気を操作するのではなく、気が自然に味方してくれる自分を育てていく——そんな学びの場です。

▼ポッドキャスト『満ちて帰る気功』(Spotify)https://open.spotify.com/episode/1PCu5vUREmy93v8Xb0PBNj?si=tyCX0WuwSN-TIi3O7YmQiQ

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