他力とは『丸投げ』ではない ― 委ねることの本当の意味

「もっと肩の力を抜いていい」「大いなる力に委ねればいい」。
そう言われても、実際のところ、どうすればいいのか分からない。そういう方は多いと思います。

私は伝統気功と仏教を実践してきた、Sun気功ヒーリングスクールの坂本佳基です。今日は「気功と密教のつながり」というお話の、最終回にあたる内容をお届けします。少し密教の話が続きますが、専門知識がなくても大丈夫です。むしろ、一人で頑張りすぎて疲れている方にこそ、読んでいただきたい内容になっています。

「他力」を、人任せの意味で使っていませんか

こういう話をすると、勘の鋭い方は、おそらくこう思うんじゃないかなと思うんですよ。「大いなる力に委ねて任せるんだったら、自分は何もしなくていいんじゃないか」と。自分はどこまでやって、どこまで仏さんに任せるのか。その境界線が、どうしても出てくると思います。

委ねる(絶対他力)は、丸投げではない

正直に言うと、この議論は密教の学者さんの間でも分かれます。でも、結論から言うと、委ねる、絶対他力というのは、もう丸投げではないんです。

だって、私もこうやって喋っているじゃないですか。丸投げでマイクの前に無言で座っていたら、多分、誰も聞いてくれないですよね。密教の教えというのは、やはり自分の体は動かします。脳と心と体は、ちゃんと動かすんです。

他力・自力・利他・自利 ― 言葉の本当の意味

そもそも「他力」という言葉が、よく誤解されています。一般的には「自分は何もしない」みたいに使われますけど、そうじゃないんですね。

辞書だと、利他は自己犠牲して人を救うこと、自利は自分だけの利益になるように他人を犠牲にすること、と書かれています。でも仏教では、その次元の話は全くしていません。自分で悟ることを自力・自利、他を悟らせるのが利他の行。そして、人を悟らせることは人間にはできないので、阿弥陀如来さんが救ってくれますよ、というのが本願思想です。「ストレッチを人任せにして、ボーッとしていれば体が柔らかくなる」みたいな意味では、まったくないんですね。

ポテトチップスを食べていても、加持は働くのか

ここで、一つ問題を設定してみましょうか。「仏さんがやってくれるなら、リビングでポテトチップスをボリボリ食べながらボーッとしていても、加持が効くのか?」

私だったら、それは無理だと言いますね。「じゃあ絶対他力じゃないじゃないか」と突っ込まれると困るんですけれども、何もしなければ加持は働かないんですよ。

加持は「加える」に「持つ」と書く

加持というのは、「加える」に「持つ」と書きます。仏さん側から見れば、ポテトチップスを食べている、欲望まみれの人のことも、智慧の力によって救おうとする力が働いているのは間違いない。ただ、それを受け取る側がいる。仏さんの力(加持の「加」)と、それを持つ、私たち衆生が受け入れる(「持」)。この二つがワンセットになって、初めて加持というものが働くんです。

「加」=如来の大悲、「持」=衆生の信心

説明するときは、「加」は如来の大悲、「持」は私たち一切衆生の信心、と二つに分けて言われますけど、本来はワンセットなんですね。もしポテチを食べてボーッとしているだけでみんなが救われるなら、戦争もなくなって、世界は平和になる。そう思いませんか。ところが、ならない。やっぱり受け取る側に、何か問題があるわけです。

たった一つやるべきこと ― 自分の非力さを自覚する

じゃあ、その受け取る側の問題は何か。ズバリ言いますけれども、やるべきことはたった一つあるんです。それは、いかに自分が非力なのかを自覚することなんですね。自分の小ささをしっかりと自覚することが、この大いなる力につながっていくんです。

自我という邪魔

受け取れない理由は、自我という邪魔です。「どうせ自分なんて」という妬み、人を蔑む、自分を憐れむ、人と比べて「あの人は優れている、私は劣っている」。そういう自我の働きがあると、支えられているとか、感謝の気持ちにつながりにくい。物を惜しむ心が現れ、怒る心が現れ、自分のエネルギーを消耗して、「自分一人で生きているんだ」という気持ちに帰着していってしまう。昔の私が、まさにそうでした。

「危ないやつ」だと思われていた、僕の学生時代

私は四国の鍼灸マッサージの専門学校に通っていて、そこで今の奥さんと出会いました。付き合ったり別れたりを繰り返しながら、今は夫婦になっています。

実は当時、私は結構「危ないやつ」だと思われていたらしいんですよ。自分では、まったく自覚がないんです。奥さんに私が告白したとき、彼女はクラスメイトの男友達に相談して、「坂本さんはやめた方がいい、もっといい人いますよ」と言われていたそうなんですね。私は当時それを知らないし、「自分は何でもできる」と、自分中心に動いていた。密教にも、仏さんの教えにも、まだ出会っていませんでした。

卒業後に聞いた本音

その本音を聞いたのは、卒業してからです。学生当時は、みんなものすごく仲良くしてくれている感覚だったんです。でも、実際は半分嫌われているような話で。今の奥さんも、「好き好き20%くらい」で付き合ってくれていたそうなんですね。それでも、誕生日にクラッカーを鳴らしてサプライズしてくれたり、思い出を作ってくれた仲間がいた。

申し訳なさとありがたさから湧いた、利他の力

その話を聞いたときに、「申し訳ないな」とやっぱり思ったんですよ。「自分は好かれている」と思い込んでいた。これって、めちゃくちゃ傲慢ですよね。でも逆に、そんな非力な、何もできないやつなのに、我慢して付き合ってくれていたんだ、という申し訳なさとありがたさを感じたんです。

そうなると、その仲間が困っていたら、自分の力になることは何でもしよう、と自然と思えるんですよね。見返りを求める気持ちじゃなくて、純粋に。私は、これが密教の意識だと理解しています。自分の非力さをしっかり自覚することによって、利他の力が自然と湧いてくる。その純粋さの土台にあるのが、自分の非力さなんです。

悟りは難しくない、難しいのは“遇う”こと ― 空海『性霊集』

そういうことを思っていたときに、空海さんの『性霊集』という文に、こんな例え話が出てきます。

巨石と蚊虻、船と鳳凰

蚊や虻(あぶ)は、狭い空間しか飛べません。大きな石は、大海原を泳ごうとしても、ただ沈んでいくだけです。自分の力ではどうにもならない。でも、そんな巨石でも、船を得れば世界中どこへでも渡れる。小さな蚊や虻も、鳳凰の背中に乗れば、天空を自由自在に飛べる。この船や大きな鳥に当たるものが、密教の教えに出会う、ということなんですね。

「冒地の得難きに非ず、此の法に遇うことの易からざるなり」

空海は「遇うと遇わざると、なんぞそれ遥かなるや」と言いました。この「遇う」は、未知との遭遇の「遇」。思いがけず出会う、という字です。そして空海は、悟ること自体は別に難しいことじゃない、と言っているんです。「冒地(ぼうじ)の得難きに非ず、此の法に遇うことの易(やす)からざるなり」。悟りが得難いのではない、この法に遇うことこそが難しいんだ、と。

自分の力では、決して会えない。誰かと約束して、何時にどこそこで会う、みたいな出会いじゃないんです。こちらの意図なんて及ばない、向こうからやってくる。その出会いが訪れるかどうかも、やっぱり自分の非力さの自覚がなければ始まらないんですね。私自身、学生時代は無自覚で、自分中心で生きていた。だから出会えなかった。自分の非力さの自覚があって初めて、法の世界と私が、しっかりとリンクしていく。感応していくんです。

縦の糸と横の糸 ― あなたは本当に一人の力で生きていますか

中島みゆきさんの「糸」という歌を、もう一度聞いてみてください。私は、これが密教だと思います。

私たちは、自分一人のたった一本の縦糸だと、すぐ切れてしまうんですよ。それを「どうにかなる」と思って、自分勝手に生きてしまうのが、人間の自我の悲しいところです。でも、縦の糸と横の糸が織りなす布は、いつか誰かを暖めることができる。たくさんの糸が重なり合って、さまざまな関係性や助け合いの中で、今、あなたの命が生かされている。今この記事を読めているという時点で、自分一人で生きていないことの証明なんですよ。それを、ただ忘れているだけなんですね。

非力さを自覚すると、感謝がパッと灯る

「感謝しよう、感謝しよう」と思っても、なかなかできないですよね。でも、自分のふがいなさや申し訳なさが、初めてはっきりと自覚されたときに、パッと心が明るくなるんです。順番が逆なんですね。感謝しようとするより先に、自分の非力さを認める。すると、感謝は自然と灯ります。

日常でできること ― 真言念誦

とはいえ、この非力さの自覚は、日常ですぐ忘れてしまいます。私でも忘れます。だから密教では、真言念誦という実践を大切にします。真言は「真実の言葉」と書いて、忙しい人でも、短く繰り返し唱えられる。呪文ではなく、自分の非力さを思い出し、そこと向き合うための言葉です。たとえば大日如来の真言なら「アビラウンケン」。今この瞬間からでも、できることです。

自分の限界を受け入れた人は、不思議と前に進む力が出てきます。一人で頑張っていた人が、人の助けを借りたり、自分より優れた人に素直に学べるようになる。そうすると、人生ってすごくスムーズに回っていくんですね。気功師も同じで、この意識がないと、相手が良くなっても自分が疲弊してしまう。でも、この意識をつくっていくと、自分も相手も元気になっていくんです。

最後に、あなたにお伝えします。あなたが今、一人で抱えて頑張っているそれは、本当にあなた一人の力でやっているんでしょうか。少し大きな、織りなす布に包まれている――そう自覚したとき、心はどう変わるでしょうか。

もう少し学びたい方へ

この記事は、ポッドキャスト『満ちて帰る気功』でお話しした内容をもとにまとめたものです。頑張りすぎた心と体をゆるめ、本来の自分へ還っていく――そんな時間をお届けしている番組です。音声やビデオでは、この記事に書ききれなかった細やかな話も、坂本佳基の語り口そのままで聞いていただけます。「この続きを聞いてみたいな」と思われた方は、ぜひ番組の方も訪ねてみてください。

▼音声で聴きたい方はこちら Spotify『満ちて帰る気功』 https://open.spotify.com/episode/4NZJZ2vTxRCLOFHqvYj1J0?si=1knEorQVQaqOpR8TaQwMDg

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