世界は最悪だと思っていた。でも、問題は世界じゃなかった

世界が最悪に見えていた頃のこと

「世界は本当にそんなに悪い場所なのか」

これが今回お話ししたいテーマです。気功に出会う前の話につながっています。

新興宗教にどっぷりはまっていた

まず、少し打ち明けにくい話から始めます。

20代の頃に某新興宗教にどっぷりはまっていた時期が1年ほどありました。あえて名前は出しませんが、最近新聞を読んでいる方ならわかる団体です。

新興宗教の論理というのはシンプルで、「教祖が言うことが唯一絶対正しい。なぜなら、神が教祖を選んでいるから」という構造になっています。スピリチュアルの世界でチャネラーの方が宇宙人と交信して真理を説く、というのも基本的に同じ構造です。

脱会した後も、頭では「無限の可能性がある、自分次第だ」とわかっていても、深いところでは引き戻されるような感覚がある。その団体の本を捨てられなくて、家に持ち帰ってきて、たまに読んでしまっていた。「これはまずい、洗脳されてるんじゃないか」と気づきながら、やめられない。

そういう状態のまま、20代前半、私はシンガーソングライターになりたくて専門学校に行こうとしていました。

歌うことが嫌いになった3カ月

新聞奨学生という制度があって、新聞配達をしながら奨学金をもらって学費も出してもらえる、給料ももらえるという仕組みです。それを使ってボーカルの学校に通い始めたんですね。

ところが、新聞配達というのがものすごく大変で。3カ月ほどで学校の方を辞めてしまいました。新聞配達には2年の縛りがあるのでやめられない。疲れ果てた状態で歌を歌うというのが、もうしんどくて。歌うことすら嫌いになっていって、そのまま学校を辞めて、2年間ただ新聞配達だけを続けるという形になりました。

自分で選んだ道なのに、3カ月で挫折する。惨めだな、と思っていました。

寮の先輩たちが開いてくれた窓

ただ、その新聞配達の寮で出会った先輩たちが、非常に個性的な方たちでした。

一人は、ゲームプログラミングの専門学校に通っている方で、地元が佐世保市で一緒だったんですね。畳3畳ほどの部屋に行ったら、数Ⅲ・Cの参考書が置いてある。「ゲームのプログラミングに必要だから」と言うんですよ。体育会系で、頭の中だけで完結するような世界には全然縁がなかった私が、そういう世界に生きている人がいるんだということを、初めてちゃんと実感した気がします。

もう一人は専売所のスタッフの方で、部屋からビートルズのレコードが流れてくる。壁が薄いから丸聞こえなんですよ。部屋にレコードプレーヤーと大量のレコード、それから本がたくさんあって。カントの『純粋理性批判』の岩波文庫が置いてあった。「これを理解したら天才って言われるぐらいなんだよ」と言われて、「私も天才になりたいです」と言って貸してもらって、返した後に自分でも買って読みました。

それまで自己啓発本もビジネス書も小説も読んだことがなかった私が、本を読むようになっていったのは、この先輩たちの影響からです。先輩たちが興味を持っているものに、自分も興味が向いていった、という感じですね。

苫米地先生の本との出会い

「内部表現」という概念が出てきた

そういう流れの中で出会ったのが、苫米地英人先生の本でした。最初は英語学習の棚で見つけた『英語は逆から学べ』です。英語を学ぼうと思って手に取ったのに、なぜかずっと脳の話が展開されていく。「あれ、英語の本じゃないのか」と思いながら読んでいたら、「内部表現」という概念が出てきたんですね。

内部表現(インターナル・リプレゼンテーション)というのは、私たちが心の中で考えていることすべてのことです。今日の晩ご飯どうしようとか、仕事のプロジェクトをどう進めるかとか、言葉にならない感情とか、好き嫌いとか。言語化できているものも、できていないものも、すべて内部表現であって、この内部表現こそが世界のすべてだ、ということが認知科学の見地から書かれていました。

自分の心に映ったものが世界であるなら、自分の心を変えれば世界が変わる。運命は決まりきったものじゃないんだ、ということです。

正直、頭だけはわかった、という感じで、何をすればいいのかはまだわからない状態でしたけれど、閉塞感の中に少し光が見えた、という感覚はありました。

新聞配達の縛りが明けて、「解けた」

その後もフリーター時代が長く続いて、夢もなく、その日銭を稼ぐだけの生活が続いていくと、「このまま人生変わらないんじゃないか」「人生は決まってるんじゃないか」という感覚が、じわじわと育っていくんですよね。

新興宗教の団体の本も、まだ捨てられないままでいました。

そんな時に、苫米地先生の『洗脳原論』を読んだんですね。そこに、私が入信していた団体が名指しで取り上げられていて、「オウムに比べたら洗脳レベルが幼稚だ」と書いてあった。その一文を読んだ瞬間に、なんか解けちゃったんですよ。それまで心の9割ぐらいを占めていたものが、ほぼゼロになった。読んだだけですよ、一文を。

「俺は今、苫米地先生に洗脳されてないか」

「他人を生きていた」ということ

ただ、その直後にふと思ったんですよね。俺は今、苫米地先生に洗脳されてないか、と。教祖が苫米地先生に入れ替わっただけじゃないか、と。

でも、苫米地先生自身が「自分の考えにすらとらわれないように」とおっしゃっている。仏教でも、お釈迦様が涅槃の際に「私をよりどころにしてはいけない。私の教えと、自らをよりどころにしなさい」と最後におっしゃっている。これはすごく健全だな、と思いました。

今まで私がやってきたことは、教祖であれ、社会的通念であれ、誰かの権威であれ、「外のもの」をよりどころにして生きることでした。「他人を生きていた」ということです。自分がどうしたいのかが明確でないから、外に頼るしかなかった。外のものは決まっているものですから、決まりきったものをよりどころにすれば、運命論的な生き方しかできなくなる。

自分が誰をよりどころにするかを自分で決めていい、という感覚を持てた時に、「自分をよりどころにする」ということの意味が、ようやくわかってきた気がしました。

世界は不確定で、決まりきったものではない

苫米地先生の本では、ゲーデルの不完全性定理やチャイティンの証明などを通じて、世界はそもそも不確定なものだということが、学術的な文脈から語られていました。量子力学における不確実性の定理もそうですし、数学の世界においても不確定性が成り立つ、と。

私自身は数学が得意なわけではないので、細かい内容まで理解したとは言えないんですけれど、「100年後に同じ状態のものは一つもない」「未来は無限に開かれている」ということが、これだけ積み重ねられてきた学問の世界からも言えるんだ、ということは伝わってきました。

心が病んでいたり、うまくいかないことが続いていると、「もうこれは変わらない」「自分は奈落の底に落ちていくだけだ」という気持ちになってしまう。でも、そこに「いや、そうじゃない可能性もあるよ」という一筋の光を差し込んでくれたのが、こういった学問の言葉でした。

世界は、そこまで悪い場所ではなかった

かつての私は、「世界はとんでもなく最悪な場所だ」と思っていました。

でも、自分の心に映ったものが世界であるとするなら、世界が悪いんじゃなくて、自分自身の見方に問題があったんじゃないか、という問いが立ち上がってくる。うまくいかないのは、自業自得という言葉があるように、自分自身の選択や態度がそうしてきたからだ、ということに、ようやく責任感を持てるようになってきた。

戦争が起きていても、社会が不安定でも、そこに心が支配されるかどうかは自分が決められる。起きた出来事は変えられないけれど、どう解釈するか、どう反応するか、これからどう生きていくかは、今からでも変えられる。

「何者も私の心を支配することはできない。私自身が、この心の支配者なんだ」

そう思えるようになってきた時に、世界というのはそこまで悪い場所ではなかったんだな、ということが、少しずつわかってきた気がします。

→ ポッドキャスト『満ちて帰る気功』はこちらから聴けます。https://open.spotify.com/episode/6SuHCHJg9EMHXvRlt4cuTW?si=6b9MC_5JSGaDFclXZnyPSw

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