仏教と密教の違いをわかりやすく解説します

最近、密教や仏教に興味を持ち始めた方の中には、「仏教と密教は何が違うのだろう」と感じている方も多いのではないでしょうか。さらに、この記事をご覧になっている方は、気功にも関心があると思いますので、「気功を学ぶうえで仏教や密教がどう役に立つのか」という点も気になるところだと思います。

このテーマを理解していないと、自我が強く働きすぎてしまい、心が迷いの世界に入りやすくなります。そうすると、気の流れが滞ったり、気功で健康になろうと努力しているのに、なぜかうまくいかない方向へ進んでしまったりすることがあります。

反対に、密教というものを理解すると、自我の苦しみから少しずつ解放され、心が穏やかになっていきます。そして、自分の中にある気の力も、より自然に引き出されていきます。実際、気功は密教技術のうちの一つとも言われています。

今回は、その理由も含めながら、仏教と密教の違い、そして気功との関係性についてお伝えしていきます。

そもそも仏教とは何か

仏教とは、人間の心の苦しみに取り組んできた教えです。

私たちは生きていると、肉体的な苦しみだけではなく、精神的な苦しみも経験します。たとえ体が元気であっても、人間関係や仕事の悩みがあると、心が苦しくなることがあります。筋トレをして体力があっても、心の悩みが解決するわけではありません。精神的な苦しみは、やはり精神的な領域から直接向き合っていかないと、なかなか解消できないものです。

宗教全般には、そうした心の苦しみに向き合う役割がありますが、仏教の特徴は、「苦しみのない心のあり方とは何か」を探求し、その心を自覚していくことにあります。

キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった一神教的な宗教では、心の苦しみの救いをどこか自分の外側に置き、それが自分を救ってくれるという考え方が中心になります。もちろんこれは非常に大まかな説明ですが、仏教との違いを際立たせるなら、仏教は外に救い主を置くのではなく、自分自身の心を見つめ、その心そのものを苦しみのないあり方へと変えていこうとする教えだといえます。

お釈迦さんが見つめた「生きる苦しみ」

仏教はインドで生まれました。現在の北インドからネパール国境付近あたりで、釈迦国の王子として生まれたのが、ゴータマ・シッダールタ、いわゆるお釈迦さんです。

お釈迦さんは、肉体的な苦しみだけでなく、人が生きることそのものに伴う苦しみ、そして心の問題を深く自覚していきました。当時は国と国とが争い、殺し合いもある時代でした。その中で、「なぜ人は殺し合わなければいけないのか」「なぜみんなで仲良く生きることができないのか」と考えたのです。

武芸にも秀でていたとされますが、お釈迦さんは武力で世を治めるよりも、この世の生きとし生けるものの精神的な苦しみをどうにかしたいと考えました。そして、自分自身の苦しみも解決したいという思いから、瞑想修行や苦行に励み、最終的に菩提樹の下で悟りに至ったとされています。

この「悟り」とは、自分の中に苦しみのない心のあり方を発見し、それを自覚することです。

仏陀とはお釈迦さんだけを指す言葉ではない

悟った内容そのものについてはここでは深く扱いませんが、お釈迦さんは自らが悟った内容を、教えを求める弟子たちに説きました。最初は一緒に苦行をしていた仲間たちがいましたが、お釈迦さんは「苦行そのものでは悟れない」と気づき、彼らと一度離れ、ひとりで瞑想し悟りに至りました。

その後、再び仲間たちのもとへ戻り、教えを説き、そのうちの一人が悟りを理解して悟ったのです。

ここで大切なのは、「仏陀」とはお釈迦さんだけを指す言葉ではないということです。悟った人、悟りの心を自覚した人のことを仏陀と言います。お釈迦さんが悟り、それを弟子に伝え、その弟子もまた悟る。こうして、仏教の教えが確かなものとして広がっていったのです。

仏陀がいて、法があり、その教えを受け継ぎ実践する僧の集団がある。この「仏・法・僧」が仏教の基本的な構造になっていきます。

仏教に起こった変化と「出家した人しか悟れない」という考え方

ところが、仏教の歴史の中で問題も起こります。

お釈迦さんがあまりにも偉大であったため、「お釈迦さんのように修行しなければ悟れない」と考える人たちが現れたのです。お釈迦さんは出家し、家族のもとを離れて修行したわけですから、「出家した人しか悟れない」という方向に教えが偏っていったのです。

しかし、それでは在家の人、つまり家庭を持ちながら日常生活を送っている人は悟れないことになってしまいます。それは本当にお釈迦さんの本意なのか、という疑問が出てきました。

お釈迦さんは、当時のインドのカースト制度の中で、あらゆる階層の人々に法を説いていたわけです。出家者だけでなく、在家の人々にも苦しみをなくす道を示していました。そこで、「出家者だけが悟れるのではない」という考え方が再び強くなり、大乗仏教が広がっていきます。

大乗仏教が生まれても、なお残った課題

大乗仏教は、「すべての人が苦しみから解放されるための教え」として発展しました。いわば、大きな乗り物として、多くの人を救おうとする教えです。

ただ、問題は別のところにありました。

大乗仏教は発展するなかで、非常に高度な知識体系や論理体系を持つようになっていきました。学問的になり、論書と呼ばれる難解な理論も増えていきます。さらに、戒律を守ることも容易ではありません。

現代でも「瞑想しましょう」「マインドフルネスをやりましょう」と言われても、忙しくて続かないことがあります。当時の人々も同じで、日常生活に追われ、じっくり修行する時間が取れなかったのです。

そこで登場したのが密教です。

密教とは何か――悟りの世界から直接学ぶという発想

密教をひと言で表すなら、お釈迦さんの教えを経典として学び、それによって悟りへ向かうだけでなく、「お釈迦さんが悟ったその世界そのものから、直接教わろう」とするアプローチです。

これは非常に大きな発想の転換です。

経典というのは、どうしても人から人へ伝わる中で、多少なりともバイアスが入ります。仏教の経典は「如是我聞」、つまり「私はこのように聞いた」という形で始まることが多いですが、それは誰かが聞いた教えをさらに伝えているということでもあります。もちろん、それは尊い伝承ですが、伝言ゲームのように受け継がれる中で、どうしても解釈の差が入りうるわけです。

だったら、お釈迦さんが悟った世界そのものから、直接教えを受け取るようにしよう。これが密教の基本的な発想です。

密教が日本に伝わった流れ

密教は7世紀から8世紀ごろに成立したと考えられており、その後、中国に渡っていきます。唐の時代、中国では恵果阿闍梨という方が密教を伝えていました。

そこへ日本から空海が遣唐使船で渡り、恵果阿闍梨から教えを受け、わずか数か月ほどで法を受け継ぎ、日本へ戻ってきたとされています。そして日本では、真言宗を通して密教が伝わっていきました。

日本文化や日本人の感覚には、この密教がとても親和性があるとも言われます。空海自身も、おそらくそのことを深く感じていたのではないかと思います。

仏教は「発見」であるという視点

密教を理解するうえで大切なのは、仏教はお釈迦さんがゼロから作り出した教えではなく、もともと存在していた真理の世界を発見したものだ、という視点です。

西洋的な宗教観では、神が人間に教えを与え、その教えに従うかどうかで救われるかが決まる、という構図がよく見られます。しかし仏教はそうではありません。

仏教は、「心の苦しみのない世界がもともと存在していて、お釈迦さんはそれを発見した」と考えます。だからこそ、仏教は「心の科学」とも言われるわけです。

そして密教は、その心の苦しみのない世界、法の世界が、今この瞬間も私たちに対して働きかけていると考えます。自然現象であれ、人間関係であれ、自分の内面であれ、あらゆるものを通して、その世界が言葉にならない言葉で私たちに教えている、という発想です。

仏教と密教の違いは、世界の受け取り方にある

仏教では、自分自身が一生懸命に学び、修行し、理解を深めていくことが重視されます。もちろんそれは非常に大切なことです。しかし、理解できなかったときに、「自分はまだだめなんだ」という距離感を感じやすい面もあります。

それに対して密教では、今起きているすべての現象そのものが、すでに悟りの世界からの働きかけであり、救いの力であると受け取ります。苦しい出来事も、つらい経験も、すべてが学びであり、価値あるものだと捉え直していくのです。

密教の教えを理解し、真言を念じたり、瞑想をしたり、阿字観や月輪観のような実践を行ったりしていく中で、「すべての物事が自分を成長させ、苦しみをなくしていくためのヒントを教えてくれている」と感じられるようになります。

ここに、仏教と密教の大きな違いがあります。

煩悩をなくすのではなく、煩悩すら活かしていく

この違いは、煩悩への向き合い方にも表れます。

仏教では、苦しみの原因となる煩悩をなくしていこうとします。けれども実際には、瞑想をしていても煩悩は出てきますし、迷いや執着を完全に消そうとすればするほど、かえって心も体も緊張し、気の巡りまで悪くなってしまうことがあります。

密教はそこに対して、別の見方を提示します。煩悩や迷いそのものも、悟りへ向かうための材料として活かすことができる、という考え方です。

もちろん、煩悩を無条件に肯定するわけではありません。しかし、煩悩があるからこそ、自分が何に苦しみ、何を望んでいるのかを学ぶことができる。苦しみがあるからこそ、苦しみのない生き方を学ぶことができる。そう捉え直すのが密教の特徴です。

つまり、仏教が「苦しみをなくそう」とするのに対し、密教は「苦しみはあるけれど、それはもはや単なる苦しみではなくなる」と考えるのです。

縁起の理解が深まると、利他の心が自然に芽生える

密教の教えを学んでいくと、あらゆるものに価値を見出す心が育っていきます。そうすると、視野が広がり、心の世界においても「空」や「縁起」の理解が深まっていきます。

縁起とは、自分という存在は、自分だけで独立して成り立っているのではなく、他者や環境との関係性の中で成り立っている、という考え方です。自分を説明しようとしても、出身地や家族、仕事、人との関わりなど、自分以外のものを抜きにしては語れません。

このように、自分という存在は他との関係の中でしか成り立たない。そうわかってくると、苦しみの心すらも、自分を幸せへ導くためのきっかけとして捉えられるようになります。

そして、他の存在があるからこそ自分が生きられるのだと感じられるようになると、利他の精神も自然に芽生えてきます。

気功の修行が楽になったのは密教のおかげ

私自身が密教を学んでいてよかったと感じる大きな理由は、気功の修行がとても楽になったことです。

以前は、完成された気功師の姿に向かって努力しようとするほど、「理想の自分」と「今の自分」との距離ばかりが気になっていました。気の力が自分から遠く離れているような感覚もありました。

しかし、密教の教えに触れると、修行の主体が変わります。自分ががんばって気功を身につけるのではなく、気のほうから自分を救おうとしてくれている。仏の側が自分の体となり、修行そのものを導いてくれている。そう感じられるようになったのです。

それまでは、自分と仏、自分と気が離れたもののように感じられていましたが、密教を通して、それが非常に親密な関係として感じられるようになりました。すると、自己卑下したり、自尊心を下げたりすることが減っていき、たとえ落ち込んでも、「この落ち込みにも意味がある」と受け止められるようになります。

仏教と密教を学ぶことで、気功の効果も変わってくる

密教の世界観では、この世界には常に救いの力が偏在していて、こちらに向かって働きかけてきています。そのことに気づくために、教えを学び、実践し、人とのつながりや利他の心を深めていくのです。

そうしていくと、自分自身にも感謝できるようになりますし、人との関係性の中で喜びを感じながら生きられるようになっていきます。お互いに価値があり、お互いに機能を果たしていてもいなくても、その存在そのものに意味があると感じられるようになるのです。

私自身、気功を教えてくださった先生方の多くが、仏教や密教の教えを背景に持っておられました。その影響を受けてきた一人として、仏教や密教を学ぶことは、気功の理解や実践にも大きく役立つと実感しています。

まとめ

仏教は、自分の心を自覚し、苦しみをなくしていくための教えです。そして密教は、その仏教の流れを受け継ぎながらも、今この世界のあらゆる現象そのものの中に、悟りの世界からの働きかけを見ていく教えだと言えます。

忙しくて修行の時間が取れない人、煩悩をなくそうとしてもなかなかうまくいかない人にとって、密教は「すべてのものに価値がある」という視点を与えてくれます。そしてその視点は、気功を実践するうえでも大きな支えになります。

仏教や密教の教えに触れることで、慌ただしさや孤独感、許せない心に苦しむ人が少しでも救われていく。そして、その精神を周りにも広げていける人が増えていく。そんなきっかけになれば、とても素晴らしいことだと思います。

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